政治犯収容所などでの拷問・性的暴行・公開処刑の恐怖
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調査委員会はまた、「階級の敵」の粛清は3世代までの子孫、つまり犯罪者の孫にまで及んだことを把握している。ごく稀に収容者が収容所内で子を持つこともあったが、この子も収容者とされた。このような世代にまたがる処罰のイデオロギー上の根拠は金日成が出したとされる指示に示されている。「階級の敵と派閥主義者は、誰であれ、3世代にわたってその芽を摘んでおかねばならない」。収容所看守および他の保安当局者は基礎研修時にこの考えを教えられた。「金日成の指示によれば…三世代の収容者を除去しなければならなかった」と元収容所看守、アン・ミョンチョルは述べている。
複数の収容所で、金日成の指示が書かれた大きな標識により、この三世代原則への注意が喚起されていた。
- シン・ドンヒョク氏は、1981年に第14政治犯収容所で生まれた。看守が両親を結びつけ、これに対する選択権はなかった。父親とその家族が収容されていた理由は、シン氏の叔父が韓国に逃亡したことにあるようだった。シン氏には母親が収容されている理由は分からなかった。シン氏は家族連座原則により罪が当然のこととされており、収容の根拠が問われたことはなかったと述べた。
「私は生まれながらの犯罪者であり、犯罪者として死ぬのが運命だった。私がいた場所には2種類の人間しかいなかった。銃を持った看守と、収容者の服を来た収容者だ。収容者は生まれながらにして収容者であり、収容者として生活した。それが私たちの宿命だった。誰もその理由を教えてくれなかったが、そういうものだと思っていた。それが生き方だった。」