暗殺、亡命、失脚…北朝鮮空軍「中東派兵」立役者たちの運命
ムバラクは、サーダートの親米路線を引き継ぎながらも、アメリカの同盟国である韓国との国交樹立は拒み続け、長らく北朝鮮に対する支持を明確にしていた。ムバラクは、副大統領として1980年1月、大統領として1983年4月、1990年5月、1992年10月に北朝鮮を訪問。現地では大歓迎を受け、金日成と会談し、友好関係を深めていった。
1977年からエジプト外相であり、1992年から国連事務総長を務めたブトロス・ブトロス=ガリがエジプトと韓国の国交樹立をお膳立てしようとしても、ムバラクはそれを邪魔し続けた。金日成との友好を大切にし続けたのである。
しかし、1994年に金日成が死去し、当時エジプト総合情報庁長官であったオマル・スレイマンが秘密裏に韓国を訪問して金泳三大統領と会談。韓国との国交樹立をムバラクに強く勧めたことで、1995年にエジプトは韓国と国交を締結した。
このスレイマンがムバラク政権末期に副大統領になって、ムバラク大統領の辞任を発表した人物である。しかし、ムバラクは北朝鮮を見捨てたわけではなく、南北朝鮮の仲裁役になろうとしたようである。1997年8月26日に在エジプト北朝鮮大使である張承吉のアメリカ亡命が明らかになったが、北朝鮮との関係に影響はなかった。ムバラクは、1999年4月に韓国を訪問したときにも、南北朝鮮の和解を求める態度には変わりなかった。
人権問題でも擁護
ムバラク政権は、北朝鮮に対する制裁にも反対の態度を示していた。2006年10月14日に国連安保理で対北朝鮮制裁決議1718号が採択され、全ての国連加盟国に対して決議の採択から30日以内に制裁状況を報告するように要請されたが、ムバラク政権は報告しなかった。2009年6月13日に採択された決議1874号でも、45日以内に報告するように要請されたが、それにも応えなかった。